2021-07-28

わかってそうでわかってない

僕は今、ゼロからくらしかた、生き方をつくりなおそうと模索している真っ只中にいます。

それはこの春、妻の病と向き合うことになったことがなにより大きいと思います。それだけでなく同じタイミングで、ぼくの人生そのものとも思えてきた、ごかんが、一つの人格みたいに意思をもちはじめて、僕のコントロールを超えて自立的に成長しはじめたことも大きいなと実感しています。

ある種、逃げ場のない圧倒的な事実が、しかも一つでなくいくつも同時に僕の目の前にやってきて、いままで知らず知らずのうちに重ね着していた、固定概念や肩書き、人的つながり、独りよがりな義務感、正義感、常識みたいなものを一気に剥がされて、「裸ん坊のお前は、今、何と向き合っていきたい?一体、どんなことを頭でなく、心の奥深くに感じながらいきていきたい?」と問いつめてくるのです。

冒頭に書いたように、僕はそんな問いかけに対して、戸惑いながら日々をすごしています。

そしてこの数日、すこしトライしはじめてみたのが、妻と本当に無防備に対話をしてみるということ。

そうしてみようとおもったきっかけの一つの出来事があって、それは普段は遠く離れている家族のような友人が美保と僕のことを気遣って会いにきてくれた時のこと。ふと思い立って、朝、二人ではいったコーヒーショップでハーブティーを飲みながら2時間近く対話をしたのです。

とくに何かテーマを決めて話をしたわけではなく、いわゆる雑談をしました。

でもその雑談をしているうちに、ああ、本当に心地いいな、今、穏やかで安らかな空気に包まれているなって感じることがあって。今の僕にはそれが本当に心の浄化につながったことがとても印象深かったのです。

その時はなにか今の状況に対して具体的な解決策を見いだせたわけではないんです。

ただただ、お互いが知らず知らずのうちに心が無防備になっていって、子どもみたいに素直に自分の心のうちを開いただけ。

心をひらくといっても、僕が友人に感情をぶつけたわけでもなくて、うまく言えないのですが、僕の心の奥深くの状態を、もう一人の僕とその友人の二人で、淡々と穏やかに観察していくような感じ。心を理解するための観察に集中していくうちに、感情が体を支配する感じはきえていく代わりに、感覚が研ぎ澄まされていくようでした。

同時に、この観察、探求を一緒にしてくれている友人に対する愛情や安心感みたいなものもじんわりと僕の体に染み渡ってくるようで、心が深く安定していくような感覚がありました。

彼からも「まっちゃんが無防備になってくれて嬉しい。まっちゃんの無防備な姿に美しさを感じるよ。そうやって僕に無防備になってくれたことが、僕は家族のような存在とおもってくれたのかなと思えてとても嬉しいし、安心できた」っていってくれたのですが、その言葉も、僕の心を深く浄化させてくれたのは言うまでもありません。

そのあと、その対話の時間を思い返すことがなんどもあったのですが、ふと、数年前に読んだ本に書いてあったオープンダイアローグって、こういう状態のことをいうのかもしれない、と思えてきました。

そして直感的に思い浮かんできたのが、僕なりのオープンダイアローグをはじめてみたい、ということ。いきなり新規事業みたいにするとかではなく、ただ先人の手法を真似るのでもなく、はたまた自分の経験を裏付けに頭の中で思考を先走りさせた会話をするのでもない。ただ僕の感覚だけを信じながら、僕なりのオープンダイアローグをさぐってみたらどうだろう。そうやって探りながらの対話の時間を積み重ね、深めていったら、果たして自分の感覚にどんな変化がうまれるだろう、という思いがわきあがってきたのです。

じゃあ、まず誰と対話をはじめるか?

即答で思い浮かんできたのが「妻」でした。

今、僕が妻とこういった対話を重ねていくことをせずに、なにか別の取り組みや役割を見出そうとして、仮になにか取り組みを立ち上げたとしても、それはどこか表面的なものになりそうな気がするのです。自分自身をもう一度本当に無防備に真っ白な裸ん坊にしてから、そこから、ふいと湧き出てくることでないと、なにか本当のものであったり、だれかの心の奥深くに響くことって生み出せない気がしてしょうがないのです。

とはいえ、かりに無防備に真っ白になったとしても、そこから湧き出てきたものが、社会に対してなにかを生み出すことにはつながらないこともありえるでしょう。あんまり目的や未来のせいかを求めてこういう対話をしたいわけではないんです。もっと正直に言えば、頭で考えているというわけじゃなくて、まず妻とこういう対話を重ねたい、そこが僕のゼロ地点なんだろうっていう説明しようのない感覚があるだけなんです。

そういうわけで、この数日、箱根の滝のそばに腰掛けて2時間近く、なにげない対話をしてみたり、離れているけれど、妻の存在をそばで感じながらメールで言葉を交わしあったり。そんなことをしはじめている中でまず感じているのが、「わかってそうでわかってなかった」ということ。

20年以上も一緒にいるので、妻のことを完全にわかったような気になっていたり、どうしても、当たり前にそばにいる存在、固定的に変わらずにいる存在って無意識で捉えてきたんでしょう。でも、こうやって意識をむけて集中して対話をしてみると、あ、こんな風に社会をとらえているんだね。とか、喧嘩を避けて話さなかったようなことをこうやって話してみると、案外、暮らし方の根本的な価値観っておもったより近かったんだね!とか。

一方で、昨日とかは、僕が社員にプレゼントしようとおもって、日高義隆さんの「世界をこんなふうにみてごらん」という本をまとめて数冊購入したまさにその瞬間にメールがきて、なんだろうって開けたらとある本の1ページの写真とともに妻からのひとことメッセージが。

送られてきた写真に映る本のページには「もし本をギフトとして贈る文化ができたらどんなに素敵なことだろう」と書いてあって、妻からのメッセージには「本をギフトとして贈ること。あなたは前からしているよね」とありました。

なんだか無防備に対話をしていると、そういうおもわぬ嬉しいシンクロニシティも起きたりして楽しかったりもするのですが、やっぱり、わかったようでわかってないことを感じることが思った以上に心地良くて楽しくて。それでもってわかったようでわかってないことを感じると、不思議と相手にたいして愛情や慈しみが増す感覚も湧いてきます。

昨日、信頼している社員にも「さっき、じゃがさんが、これからはあえて価値観が異なる人や世界にふれていきたいっていってましたけれど、案外、価値観があうなって身近に感じている人も、本当は価値観が違う部分もたくさんあるかもしれないですよね。価値観が近い人、遠い人っていうのも本当はなくて、みんな等距離で一人一人価値観は違うような気もしますよ」っていわれたりもして、それを聞いた時もハッとしたけれど、数秒後にはそうかもしれないなーってすごく深く染み込んできたのです。

なんだかまとまりないですが、そういうわけで、これからは、森に包まれた庭を眺めながらお庭で積んだハーブをお茶にして、妻と無防備なおしゃべりを重ねていくような時間をくらしにとりいれようと思います。

全田和也

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