2021-11-27

「ごかんたいそう」を自分に問い直してみる

 数ヶ月前、身近な友人にすすめてもらったことがきっかけで、僕にあたらしい日課がうまれました。それは詩をつくることです。もともと言葉が浮かんできやすい性分ではあって、懇談会とかでも想いが溢れてしまって気がついたら1時間半以上オーバーしてしゃべってしまったこともあるぐらいですが、日課として詩をつくったことはありませんでした。

何事も習慣化するのが下手な方なのですが、その友人からとにかく100日は毎日欠かさず続けてみてください、というアドバイスがその時の僕にはどういうわけかストンと心に響いて、今年の初夏にはじめてから、数ヶ月たった今もほぼ毎日詩をつくりつづけています。周りからみると僕が詩をかくかどうかなんてどうでもいいことでしょうし、実際、自分の中だけのささやかな日々のくらしかたの変化ではあるのですが、これが続けていくと、自分の生活に思いもよらないぐらいの豊かさを与えてくれるものになりました。

そして、詩をつくる日々を数ヶ月つづけていくうちに、ここ最近、自分の中で「ごかんたいそう」ってこういうことなのかも?といったことが浮かんできたのです。

それは、
「ごかんたいそうって7つの動作の流れを通じて、ただ生きる喜びを体感すること」

これだけだと意味がわからないと思うので、僕の詩の創作になぞらえて例示してみると・・

まず、7つの動作の最初の5つ。これはごかんたいそうの字の通り。

まさに「五感を研ぎ澄ませてインプットすること」

たとえば、僕は、朝起きがけにベランダから森を観察したり、森の小道に分け入って森林浴をしたり、時々砂浜を散歩したり、といったことをほぼ日課にしているのですが、朝靄がかかる静寂の森に身を置くとそれだけでなんともいえない新鮮な感覚になります。色々な野花や生き物の色、形に目を奪われてじっと集中して見入ったり、土を一歩一歩踏み締めたときの足の裏が土と響き合うような感覚に驚いておもわずなんども踏みなおして確かめたり、どこからともなく聞こえてくる野鳥の声や風の音が他のあらゆるものの音が無音になるぐらいに際立って聞こえたり。香りを感じること、味わうこと、耳をすますこと、ふれること、みつめること、そういった動作に集中し、感覚を研ぎ澄ましていくと、おおげさかもしれませんが、世界のすべてと自分が一体化していくような、共鳴していくような感覚がやってくることがあります。

次の6番めの動作は「ただ感じること、あじわうこと」

僕たち大人って、五感をつかった最初の5つの動作から得られたインプットを、ややもすると、脳内に情報として取り込んだ後、脳の中にある過去の記憶や思考でもって瞬時に解析・分析したり、反応していろんな感情をひろげたりすることが多いと思うのですが、ここでおすすめしたいポイントなのが、「できるだけ頭をつかわず、意味も目的も評価も判断も時間もなにも考えず、思考や感情をひろげず、五感から得られたインプットをただただそのまま体で感じる・味わうこと」。かのブルース・リー師も「Don’t think,Feel」とおっしゃっています。一見難しそうな動作にも思えるのですが、五感で感じることって、たとえば「この蝶々なんでこんなに美しいんだろう。なんていきいきしているんだろう」みたいなことがあったときに、脳内で言語化する前段階の初期衝動・初期感動ということではないかと思うんです。その初期衝動・感動をそのままリミットをかけずにそこだけに全身の意識を集中させて味わうようにすると、自然とより集中し、感覚もより研ぎ澄まされていって、頭で考えるなんてことも忘れて、ふと気がつくと、なにかに深く感じたり、味わうということになっていけるように思います。

そして最後の7番めの動作は「つくること、表現すること、アウトプットすること」

たまたまなのかもしれませんが、たとえば、僕が森を散歩している時に、先述の1から6までの動作を体験することがあると、最初は感動がくるのですが、そのあとにだんだんとおとづれてくる次の感覚があって、それは「深い深い心の穏やかさ」や「心の静けさ」、時には「見るもの全てが新鮮に見えたり、無生物までいきいきと命が宿っているように見えたり」、あるいは「まるで自分が乳幼児のようになにものでもないただの無邪気で無防備な自分になっていることを感じたり」。言葉でうまく表現できないのですが、なんともいえない感覚を僕にもたらしてくれます。
それでもって、そういう感覚でいる最中や、散歩からもどってきてそういう余韻を味わいながら一人静かに腰掛けていたりする時に、ふいに詩がわいてくることが多いのです。こんな風に大袈裟に書くとどんなすごい詩つくってるのっておもわれそうですが、僕はプロの詩人でもありませんし、正直自分で後から読み直してみると、このおじさん年甲斐もなく幼稚なこと書いてるな。。って思っちゃう時もあります。でも詩のクオリティとかそんなこと関係なく、ふと湧いてきて詩をうみだしていく時間がたまらなく楽しくて心地よいですし、自分の存在を実感できて、誰に評価されるまでもなくその時点でものすごく心が満たされてくるのです(詩が生まれるときの毎回ではないですが、「なんて素晴らしい世界にいま生命を与えてもらって僕は生きられているんだろう!」ってぐらいに感じることすらあります。大袈裟やろ!と突っ込まれそうですけれど。)。

ごかんのこどもたちをみつめていると、こどもたちって、こういう7つの動作の流れを、なにげない日常のくらしの中で、なんの特別な意識もなく自然のままに積み重ねているように見えます。園庭でみていても、いろいろな季節のお花や葉っぱに目を奪われてじっと見入っていたかとおもうと、お友達と一緒に泥や野花、葉っぱを使って美しいケーキを作り出す子がいたり。お昼ご飯後に、デッキで大人が絵本を読む様子を食い入るように見つめていたかと思うと、ふいに歌い始める子もいたり、それに共鳴するように歌のセッションがうまれたり。お友達と物の取りあいになって、相手の子の表情やそのとき流れている空気感を感じたり、味わったりする中で、おもわず大泣きしたり、「ヤダ!」って言い返したり。そういう姿からも「ごかんたいそう」を感じたりします。

僕は、10年前にごかんたいそうをはじめたときから、ずっと、「自尊心を育むくらしの場ってどういうことなんだろう?」ってことをテーマにして試行錯誤してきました。おそらく、これからも生涯このテーマを探求しつづけると思いますので、数年先にはまたいうことがかわっているかもしれませんが、今日現在の仮説としては、いまお伝えしたような7つの動作の流れを積み重ねていくことは、人が自ら自尊心を育むということにつながるような気がしますし、生きる喜びをうみだすことにもつながるような気がしています。

そして、僕は、子どものときだけでなく、大人になっても、たとえ、おじいちゃんおばあちゃんになっても、「ごかんたいそう」をすることは、自尊心や生きる喜びをひろげる一つのアプローチにはなりえる気がしていますので、老若男女関係なく、みなさんに、「ごかんたいそう」をくらしに取り入れることをお勧めしたいです。

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